"MARCH"に至るまでの道 (初出:cakes 2017年04月21日 10:00)

"MARCH"よりも先にくくりがあったのは"JAR"であり"CHARM"ではなかったか――数々の"くくり"は受験業界誌の試行錯誤により生まれ、一般メディアによって知られるようになっていったようだ。コピーライターの川上徹也氏が調べた様々な大学の"くくり"や由来を紹介する。

"MARCH"は"CHARM"から始まった?

 近畿大学の「早近慶」の広告から始まった大学の“くくり”の由来を調べる取材。
(なお、この「早近慶」は第33回読売広告大賞「アドバタイザー」の部で見事グランプリに輝いたようだ。

 “関関同立”の由来に続き、前回は「“MARCH(マーチ)” =明治大学(M)、青山学院大学(A)、立教大学(R)、中央大学(C)、法政大学(H)という5大学を総称」が生まれた定説に疑問を投げかけた。定説では“MARCH”という“くくり”は、『螢雪時代』を中心に昭和30年代から普及したとのことだったが、その証拠を見つけることはできなかった。

 昭和時代の『螢雪時代』を読むと、現在の“MARCH”の“くくり”ではなく、「青山、立教」と「中央、法政、明治」は別のグループという認識が高かった(偏差値よりもイメージのくくりが優先されていた)。

 ミッション系でおしゃれなイメージの「青山、立教」は、上智と一緒に頭文字をとって“JAR”という“くくり”が使われた。一方、「中央、法政、明治」の3大学には特別な“くくり”は生まれなかった。頭の2~3文字ずつをとって“HOCHIMINホーチミン”にしようというアイデア螢雪時代編集部内で出たらしい。ただこれは採用されなかったという。

 螢雪時代の元編集者である田川博幸氏から「そのような“くくり”が誌面に登場するようになったのは、昭和から平成に変わる頃、受験人口が爆発的に増え、私大ブームになった頃だ」というアドバイスをもらった。そこで私は、改めて1988(昭和63)年~1993(平成5)年にかけての『螢雪時代』『私大合格』『私大螢雪』を、「国会図書館」や「国際こども図書館」で調べてみることにした 。

 その頃の『螢雪時代』『私大合格』を時系列にひたすらチェックしていったが、なかなか“MARCH”には出会えない。すると、『螢雪時代』1989(平成元)年7月号の巻頭で、“MARCH”よりも先に新しい“くくり”に出会ってしまった。

 それが冒頭の写真の“CHARM(チャーム)”だ。構成される5大学は“MARCH”と同じ。ただ順番が中央大学(C)、法政大学(H)、青山学院大学(A)、立教大学(R)、 明治大学(M)と違っている。

 リードにはこうある。

<東京の人気私大で、併願校として組み合わされる5校。頭文字をつなげてみたら、なんとCHRAMができた。今月は魅力的(チャーミング)なこの5校を比較紹介しよう!>

 もしこの時までに、“MARCH”が普及していたら、わざわざ“CHARM”という“くくり”を作らないはずだ。 この5大学がひとつのグループとして語られるようになったのは、おそらくこれが最初だろう。

 しかしこの“CHARM”という“くくり”は普及しなかった。その証拠は、この号では大特集を組んでいるのに、これ以降、“CHARM”という“くくり”は、まったく見かけることがなかったからだ。この“くくり”が1号だけで終わってしまった理由について、「ある大学がその順序についてクレームを言ってきたから」という噂話も聞いたがもちろん証拠はない。だからここには書けない。

"MARCH"より、"JAR"推しだった旺文社

 1990(平成2)年になると、誌面に“くくり”の見出しが数多く登場するようになる。

 他の“くくり”は後で述べるとして、“MARCH”に関連する大学のものでいうと、やはり一番目につくのは“JAR”や“JARWAK”だ。写真は『私大合格』1990(平成2)年4月号にあった、旺文社ゼミの広告である。計5つの“くくり”が書いてあり、色々と興味深い(“甲京龍近”“日東専駒”“大東亜帝国”などについては後述する)。しかしここでも「中央、法政、明治」の3大学は、“くくり”に登場しないことがわかる。

 次の写真は『高二時代』1990(平成2)年10月号のもの。上智、青山、立教の3大学の学生のことを、“JARギャル”“JARボーイ”と称しているのが、ちょっと笑える。この頃は、まだ“MARCH”ではなく“JAR”が推されているのがわかるだろう。

 そして私は、ついに“MARCH”が初めて登場した瞬間を発見した。あくまで川上調べではということではあるが、それが写真の『私大合格』1990(平成2)年8月号だ。

 ただこの時のくくりは、あくまで“JARWaK MarCH”。青山、立教は “JARWaK”の方にくくられていて、“MarCH”に含まれているのは、明治、中央、法政の3校のみだ。今の“くくり”とは違う。AとRは重複している。何より長い。

 おそらく上記のような理由から、“JAR”が解体し、AとRが、aとrに取って代わったのではないだろうか?

 ではそれが入れ代わった年代はいつか?

 これ以降の「螢雪時代」「私大合格(私大螢雪)」を調べてみた。しかしまったく出てこない。その他の“くくり”も、この1990(平成2)年がピークで、“関関同立”“日東専駒(日東駒専)”以外はほとんど登場しなくなる。

 一方、この頃から、一般のメディアでも、“日東駒専”“大東亜帝国”という“くくり”が伝えられるようになる。例えば、『週刊現代』1990(平成2年)3月10号にある「大学下克上 日東駒専は偏差値で旧帝大 北大、東北大、九大に並んだ」などのように。

 そして“MARCH”という“くくり”が一般誌の「見出し」に登場するのは、(現時点でわかっている範囲では)、『週刊朝日』2004年4月30日号の「早慶 MARCH 関関同立 グループ別ランキング 伸びている私立高校」が初めてだ。翌2005年からは、『週刊朝日』に追随する形で、『読売ウィークリー(2005年3月27日号)』『サンデー毎日(2005年5月1日号)』などでも“MARCH”という“くくり”を使い始めるようになる。

 この1990-2004年の間のどこかで現在の“MARCH”という“くくり”が確立されたと推測できる。確かに近い言葉は定説通り『螢雪時代』などから生まれているとしても、現在の“MARCH”という“くくり”を最終的に定着させ広めていったのは、他のメディアや予備校などであった可能性も否定できない。

 しかし今回の取材では、それが誰でいつなのかは解明できなかった。残念であるが、また新しい情報を入手することができたら改めて取材してみたい。もし、この連載を読んでいただいている方で、有力な情報をお持ちの方は、ぜひ以下の問い合わせフォームから川上までご一報いただきたい(http://kawatetu.info/contact/ )。

"産近甲龍""日東駒専""大東亜帝国"など

 ここで、“MARCH”以外の“くくり”の由来について簡単にふれておこう。

 まず関西で“関関同立”に次ぐと言われる“くくり”である“産近甲龍”(京都産業大学近畿大学甲南大学龍谷大学)について。

 Wikipediaには、その由来について複数の説が載っているが、出典が書かれていない。私が『螢雪時代』『私大合格』などで調べた範囲では、見出しとしては、『私大合格』1990(平成2年)7月号に“関関同立”と並んで登場するのが最初だ(その前年にも文中には一度登場している)。

 前述した『私立合格』1990(平成2)年4月号の旺文社ゼミの広告には、京都産業大学を“産”ではなく“京”にして、“甲京龍近”というくくりで登場している。

 “関関同立”の生みの親である、大阪の夕陽丘予備校に問い合わせたところ、1986年から、甲南、近畿、京都産業、龍谷の4大学をグループにする記述は散見されるが、きちんとコースとして設置したのは1993(平成5)年だという。ただ以下の写真のように、その時のコース名は「甲近産龍コース」と、順番が違っている。

 このように順番や文字の使い方などは色々なバージョンあるにしても、1990年前後から、“産近甲龍”という“くくり”が、関西を中心に徐々に普及していったことはほぼ間違いがないであろう。

 次に“日東駒専”(日本大学東洋大学駒澤大学専修大学)を見ておこう。

 この“くくり”も『螢雪時代』の代田氏が原型をつくって後に変化したものだ。もともとは“日東専駒成成神(ニットーセンコマセイセイカナ)”だったという。“成成神”は、成城大学成蹊大学神奈川大学のこと。のちに“成成神”はカットされる。前回の記事で紹介した1980年の毎日新聞にも載っていることから、1970年代には作られていたことがわかる。しかし『螢雪時代』に載ったり、受験業界で頻繁に使われるようになったのは1989年代後半になってからだ。写真は『私大合格』1989(平成元)年10月号。私が見つけた範囲では“日東専駒”が見出しで使われている初出である。

 田川氏の証言によれば「たしか当時代々木ゼミナール副理事長だった竹村保昭氏が“日東駒専”と言い換えて、それが定着していったはず」ということだ。一般メディアにおいては、この“日東駒専”が関東地区では一番早く普及していった。

 続いて“大東亜帝国”(大東文化大学東海大学亜細亜大学帝京大学国士館大学)を見ていこう。昭和から平成に代わる私大ブームの時の『私大合格』『螢雪時代』では“亜拓大帝国”“拓亜大東国”“拓亜大帝国”“大東亜拓桜帝国”など様々な表記で登場する(”拓亜大東国”の“拓”は拓殖大学、“東”は東京国際大学、“大東亜拓桜帝国”の桜は桜美林大学と記載されていた)。

 “大東亜帝国”には当初「東海大学」は入っていなかったという説もある。ただ前述した『私立合格』1990(平成2)年4月号の旺文社ゼミの広告には、現在の「東海大学」も入った“大東亜帝国”の“くくり”が登場している。私が確認した限りではこれが初出だ。そして“拓亜大帝国”と併用されながら、徐々に“大東亜帝国”で定着していったようだ。

 他にも関東地区では、同じく代田氏が作ったと言われる“関東上流江戸桜”(関東学園大学上武大学流通経済大学江戸川大学桜美林大学)。中京地区では“愛愛名中”(愛知、愛知学院、名城、中京)、“SSK(女子大)”(愛知淑徳椙山女学園金城学院)。関西地区では“摂神追桃”(摂南、神戸学院追手門学院桃山学院)などの“くくり”が存在するという。

 最終回(予定)の次回では、これらの大学の“くくり”で得する大学、損する大学について。またコピーライティングやブランディングの観点から、大学の“くくり”を考察していきたい。

(次回「大学は自らの価値を「きちんと」発信せよ」に続く)

※本記事はウェブメディア「cakes」に寄稿していたものです。媒体消滅にあたり、ブログに移行しました。