大学は自らの価値を「きちんと」発信せよ (初出:cakes 2017年05月01日 10:00)
大手新聞の関西版に掲載された近畿大学の広告をきっかけに始まった大学の”くくり”を調べる取材も今回が最終回。ブランディングのなかで”くくり”はどのような意味づけを持つのか? またその”くくり”を脱するためにどのような発信が必要なのか? コピーライターの川上徹也氏が総括する。
なぜ多くの人が“釣り画像”に騙されたのか?
近畿大学の“早慶近”の広告から始まった大学の“くくり”の由来を調べる取材。
前回までの調査で、“関関同立”をはじめ“MARCH”“産近甲龍”“日東駒専”など、いろいろな“くくり”について調査した。これらの多くが「螢雪時代」をはじめとする受験メディアや予備校によって作られたものであることがわかった。
コピーライターで、特に企業の旗印になるフレーズを開発することを仕事にしている私からすると、一番興味があるのは、このような“くくり”が、何の目的で特定の大学をブランディングするために作られたのかどうかという点である。
実際、夕陽丘予備校の故・白山桂三氏が関西大学を応援するために作った“関関同立”というフレーズは、当時まだ“ポンキンカン”という日大、近大、関大というマンモス大学をやや揶揄した総称でくくられていた関大のポジションを高めることに大きく寄与した。関大自身がやったわけではないが、非常に優れたキャッチコピーであり、ブランディング戦略だったと言えるだろう。
しかし前回調べた“MARCH”“産近甲龍”“日東駒専”“大東亜帝国”などにおいては、そのような事実は発見できなかった。特に誰かが特定の大学のブランディングを意図してこの“くくり”を流行らせようとしたわけではなく、語呂がいいことがあって、徐々に流通していったとみて間違いないだろう。
ただし、近年、“MARCH” に学習院大学を加えて“GMARCH(ジーマーチ)”という呼び方も一部では使われている。それ以前にも、上智大学を加えて“JMARCH(ジェイマーチ)”、日本大学を加え“NMARCH(エヌマーチ)”などのフレーズが生まれては消えていった。これらの新しい“くくり”に関しては、誰かの何らかの意図が加わっていた可能性は否定できない。そのグループに入ることで得するという思惑があっても不思議ではないからだ。
2013年1月には“MARCHING”“東東駒専”という偽の“くくり”がネットをにぎわしたこともあった。“MARCHING”はMARCH に、 ICU(国際基督教大)のI、日大のN、学習院ののGを加え、それぞれ頭文字を加えたもので、 大手受験予備校が新しい“くくり”を発表したという体裁の画像になっていた。
実際は予備校がそのような“くくり”を発表した事実はなく、誰かが捏造しネットに上げられたいわゆる「釣り画像」であったのだが、多くの人たちは本物と思い込み、その“くくり”への感情的な賛否の議論がネットの掲示板などを賑わした。(参考記事 https://www.j-cast.com/2013/01/12161121.html)
多くの人が騙されたのは、その画像に実在する予備校の名前が書かれてあったからだろう。“くくり”が大学主導ではなく、予備校などによって作られるという象徴的な出来事だ。
そして一度、その“くくり”に入れられてそれが定着してしまうと、近大広報の仕掛け人・世耕石弘氏が言うところの「入れ替え戦のないリーグ戦」を戦い続けなければいけなくなってしまう。大学側がいくら努力しても、世の中の評価は変わらない。それでは、健全な競争は生まれない。
実力があるのに知られていない“もったいない”大学たち
これら現在の大学の“くくり”は校風ではなく入試の難易度によって決められている。その難易度はいわゆる偏差値によって決められる。終身雇用制という決められた価値観が一般的だった時代には、偏差値はある程度の指針になり得た。大学選びが会社選びと直結していたからだ。
そのような時代においては、これらの“くくり”は、受験生の大学選びの指標になるすぐれたキャッチコピーだった。受験メディアや予備校がこれらを作ったのはそれなりに意味があったのだ。
しかし価値観が多様化し、どんどん大学入学者が減っていく時代において、このような“くくり”はどんどん意味を持たなくなっていくだろう。
そもそも偏差値とその大学が持っている本来の価値は必ずしも一致しない。この連載の初回で示した、英国の教育雑誌「タイムズ・ハイヤー・エデュケーション」が発表した「THE世界大学ランキング2016-2017」の表を改めて見てほしい。
私立総合大学では確かに“早慶近”しかなかったが、その他、私立大学では「豊田工業大学」「東京慈恵会医科大学」「順天堂大学」「東京理科大学」が、国公立大学にもおいては30校以上が世界800位内ランキング入りしているのがわかる。このようなランキングは、理系が強い大学が上位にきやすいという点は考慮する必要はあるとしても、順位が必ずしも偏差値と比例しているわけではないことがわかるだろう。
近畿大学はここにうまく目をつけて、刺激的な広告を作り話題になった。しかしその他の大学はどうだろう? このランキングだけでも、「近大」と同等かそれ以上の大学はたくさんある。またこのような世界ランキングには入らなくても、この一点は他の大学には負けないという個性を持った大学も多数あるはずだ(そもそも大学の世界ランキング自体が特定の大学の研究所やメディアなどが発表している、ある程度恣意性がある指標でもある)。
そのような大学は、きちんと自らの実力を世の中にアピールできているだろうか?
もちろん、学術関係者や専門家の間では、その実力は知られているかもしれない。その地方では評価が高く知られている大学もあるだろう。
しかし全国規模でみれば「東京大学」「京都大学」「早稲田大学」「慶應義塾大学」の4校を除くと、ほとんどの大学がその価値をきちんとアピールできていないように感じる。この4校にしても、メディアが勝手に持ち上げてくれているお蔭でバリューが保てている側面が大きく(中には現在の実力以上に評価されている大学もある)、自らその価値を発信できている訳ではない。
予備校やメディアからは偏差値でくくられて、本来持っている実力よりも低くみられて、その他の大学は悔しくないのだろうか? もっと自らの価値をきちんと発信しようとは思わないのだろうか?
まずは、脱空気コピーから
私は講演などで日本全国色々な地方に出張することが多い。駅などに大学の広告ポスターをよく見かけるが、その多くは「世界に羽ばたく」「〇〇から世界へ」「未来を拓く」「××のその先へ」などのような抽象的な空気コピー(左から右へスルーされる何の意味もない常套句)が書かれているものだ。
新聞などでも複数の大学を並べた記事風広告などをよく見かけるが、これもまったく同じ空気コピーのオンパレード。どこの大学の学長の話もほとんど変わらない。
もちろん、上記のような空気コピーとは違うスローガンやキャッチコピーを掲げている大学もある。しかしその多くは「抽象的」すぎたり、「英語で意味が伝わりにくい」ものだったり、「目立ってはいるけどそれだけ」だったり、「いい言葉だけど他の大学でも使えるもの」だったりする。
大学名を伏せたら、どこの大学かわからないものがほとんどで、その大学が本来持っている価値をスバリ表現している言葉を見かけることはまずない。
ではどうすれば、大学は自らの価値をきちんと発信していけるのか?
まずは広告・広報など、外部に発信していく言葉を変えることから始める必要がある。そして空気コピーを絶対に使わないという決意から始めよう。
その上で、大きく以下の3方向の発信の仕方が考えられる。
①一点突破の川下型
何かその大学を象徴する売りになるコンテンツや人を見つけ出して、一点突破でそれをインパクトのある表現で訴えていくという手法。近大の「近大マグロ」を使った広告などがこれに当たる。
②ストーリーを生み出す川中型
その大学が持っている熱い思いを強いメッセージにして発信していくことで、ストーリーの主人公になり共感を呼び起こししていくという手法。偏差値による序列をぶち壊すことに挑戦した近大の「早慶近」の広告などがこれに当たる。
③理念をコツコツの川上型
その大学が持っている一番の価値を言語化し、その1行を旗印にして学内外にコツコツ発信していくという手法。その旗印が、その大学ならではもので、具体的な指標になることができるものであれば、偏差値以外の価値観を生み出すことも可能になる。
もちろん、広告・広報の言葉を変えるだけでは不十分だ。実際にその言葉に合わせて、大学の授業、教員、設備なども変えていく必要がある。③の旗印になる言葉が、それらの改革の指標になることが理想的だ。また、今後は地元の住民や自治体に応援してもらえるような施策を実行していくなどの「ストーリー作り」も重要なポイントになってくる。
18歳人口の減少で、近い将来、潰れていく大学がバタバタと出てくることが予想される。そんな中で生き残っていくには、それぞれの大学が古い価値観を基にメディアや予備校が作った“くくり”を打破していく必要がある。
近大一校だけがおもしろい広告広報を展開していても、旧来の価値観に縛られた大学の序列はなかなか変わらない。全国の大学が同時多発的に、キャラの立った広告・広報の展開をしていくことが、「固定概念」を覆し、硬直化している世の中の価値観を大きく変えていくことにつながるのだ。
近大に負けない広告・広報を発信する大学が増えていくと、きっともっとおもしろい世の中になる。
(了)
追記
近大の“早慶近”の広告が第33回読売広告大賞「アドバタイザー」の部でグランプリを受賞したとのこと。過去は全国版の広告主しか受賞することがなかったそうで、関西版のみの広告でのグランプリ受賞は異例中の異例だそうだ。おめでとうございます。
※本記事はウェブメディア「cakes」に寄稿していたものです。媒体消滅にあたり、ブログに移行しました。
"MARCH"に至るまでの道 (初出:cakes 2017年04月21日 10:00)
"MARCH"よりも先にくくりがあったのは"JAR"であり"CHARM"ではなかったか――数々の"くくり"は受験業界誌の試行錯誤により生まれ、一般メディアによって知られるようになっていったようだ。コピーライターの川上徹也氏が調べた様々な大学の"くくり"や由来を紹介する。
"MARCH"は"CHARM"から始まった?
近畿大学の「早近慶」の広告から始まった大学の“くくり”の由来を調べる取材。
(なお、この「早近慶」は第33回読売広告大賞「アドバタイザー」の部で見事グランプリに輝いたようだ。)
“関関同立”の由来に続き、前回は「“MARCH(マーチ)” =明治大学(M)、青山学院大学(A)、立教大学(R)、中央大学(C)、法政大学(H)という5大学を総称」が生まれた定説に疑問を投げかけた。定説では“MARCH”という“くくり”は、『螢雪時代』を中心に昭和30年代から普及したとのことだったが、その証拠を見つけることはできなかった。
昭和時代の『螢雪時代』を読むと、現在の“MARCH”の“くくり”ではなく、「青山、立教」と「中央、法政、明治」は別のグループという認識が高かった(偏差値よりもイメージのくくりが優先されていた)。
ミッション系でおしゃれなイメージの「青山、立教」は、上智と一緒に頭文字をとって“JAR”という“くくり”が使われた。一方、「中央、法政、明治」の3大学には特別な“くくり”は生まれなかった。頭の2~3文字ずつをとって“HOCHIMINホーチミン”にしようというアイデアが螢雪時代編集部内で出たらしい。ただこれは採用されなかったという。
螢雪時代の元編集者である田川博幸氏から「そのような“くくり”が誌面に登場するようになったのは、昭和から平成に変わる頃、受験人口が爆発的に増え、私大ブームになった頃だ」というアドバイスをもらった。そこで私は、改めて1988(昭和63)年~1993(平成5)年にかけての『螢雪時代』『私大合格』『私大螢雪』を、「国会図書館」や「国際こども図書館」で調べてみることにした 。
その頃の『螢雪時代』『私大合格』を時系列にひたすらチェックしていったが、なかなか“MARCH”には出会えない。すると、『螢雪時代』1989(平成元)年7月号の巻頭で、“MARCH”よりも先に新しい“くくり”に出会ってしまった。
それが冒頭の写真の“CHARM(チャーム)”だ。構成される5大学は“MARCH”と同じ。ただ順番が中央大学(C)、法政大学(H)、青山学院大学(A)、立教大学(R)、 明治大学(M)と違っている。
リードにはこうある。
<東京の人気私大で、併願校として組み合わされる5校。頭文字をつなげてみたら、なんとCHRAMができた。今月は魅力的(チャーミング)なこの5校を比較紹介しよう!>
もしこの時までに、“MARCH”が普及していたら、わざわざ“CHARM”という“くくり”を作らないはずだ。 この5大学がひとつのグループとして語られるようになったのは、おそらくこれが最初だろう。
しかしこの“CHARM”という“くくり”は普及しなかった。その証拠は、この号では大特集を組んでいるのに、これ以降、“CHARM”という“くくり”は、まったく見かけることがなかったからだ。この“くくり”が1号だけで終わってしまった理由について、「ある大学がその順序についてクレームを言ってきたから」という噂話も聞いたがもちろん証拠はない。だからここには書けない。
"MARCH"より、"JAR"推しだった旺文社
1990(平成2)年になると、誌面に“くくり”の見出しが数多く登場するようになる。
他の“くくり”は後で述べるとして、“MARCH”に関連する大学のものでいうと、やはり一番目につくのは“JAR”や“JARWAK”だ。写真は『私大合格』1990(平成2)年4月号にあった、旺文社ゼミの広告である。計5つの“くくり”が書いてあり、色々と興味深い(“甲京龍近”“日東専駒”“大東亜帝国”などについては後述する)。しかしここでも「中央、法政、明治」の3大学は、“くくり”に登場しないことがわかる。
次の写真は『高二時代』1990(平成2)年10月号のもの。上智、青山、立教の3大学の学生のことを、“JARギャル”“JARボーイ”と称しているのが、ちょっと笑える。この頃は、まだ“MARCH”ではなく“JAR”が推されているのがわかるだろう。
そして私は、ついに“MARCH”が初めて登場した瞬間を発見した。あくまで川上調べではということではあるが、それが写真の『私大合格』1990(平成2)年8月号だ。
ただこの時のくくりは、あくまで“JARWaK MarCH”。青山、立教は “JARWaK”の方にくくられていて、“MarCH”に含まれているのは、明治、中央、法政の3校のみだ。今の“くくり”とは違う。AとRは重複している。何より長い。
おそらく上記のような理由から、“JAR”が解体し、AとRが、aとrに取って代わったのではないだろうか?
ではそれが入れ代わった年代はいつか?
これ以降の「螢雪時代」「私大合格(私大螢雪)」を調べてみた。しかしまったく出てこない。その他の“くくり”も、この1990(平成2)年がピークで、“関関同立”“日東専駒(日東駒専)”以外はほとんど登場しなくなる。
一方、この頃から、一般のメディアでも、“日東駒専”“大東亜帝国”という“くくり”が伝えられるようになる。例えば、『週刊現代』1990(平成2年)3月10号にある「大学下克上 日東駒専は偏差値で旧帝大 北大、東北大、九大に並んだ」などのように。
そして“MARCH”という“くくり”が一般誌の「見出し」に登場するのは、(現時点でわかっている範囲では)、『週刊朝日』2004年4月30日号の「早慶 MARCH 関関同立 グループ別ランキング 伸びている私立高校」が初めてだ。翌2005年からは、『週刊朝日』に追随する形で、『読売ウィークリー(2005年3月27日号)』『サンデー毎日(2005年5月1日号)』などでも“MARCH”という“くくり”を使い始めるようになる。
この1990-2004年の間のどこかで現在の“MARCH”という“くくり”が確立されたと推測できる。確かに近い言葉は定説通り『螢雪時代』などから生まれているとしても、現在の“MARCH”という“くくり”を最終的に定着させ広めていったのは、他のメディアや予備校などであった可能性も否定できない。
しかし今回の取材では、それが誰でいつなのかは解明できなかった。残念であるが、また新しい情報を入手することができたら改めて取材してみたい。もし、この連載を読んでいただいている方で、有力な情報をお持ちの方は、ぜひ以下の問い合わせフォームから川上までご一報いただきたい(http://kawatetu.info/contact/ )。
"産近甲龍""日東駒専""大東亜帝国"など
ここで、“MARCH”以外の“くくり”の由来について簡単にふれておこう。
まず関西で“関関同立”に次ぐと言われる“くくり”である“産近甲龍”(京都産業大学、近畿大学、甲南大学、龍谷大学)について。
Wikipediaには、その由来について複数の説が載っているが、出典が書かれていない。私が『螢雪時代』『私大合格』などで調べた範囲では、見出しとしては、『私大合格』1990(平成2年)7月号に“関関同立”と並んで登場するのが最初だ(その前年にも文中には一度登場している)。
前述した『私立合格』1990(平成2)年4月号の旺文社ゼミの広告には、京都産業大学を“産”ではなく“京”にして、“甲京龍近”というくくりで登場している。
“関関同立”の生みの親である、大阪の夕陽丘予備校に問い合わせたところ、1986年から、甲南、近畿、京都産業、龍谷の4大学をグループにする記述は散見されるが、きちんとコースとして設置したのは1993(平成5)年だという。ただ以下の写真のように、その時のコース名は「甲近産龍コース」と、順番が違っている。
このように順番や文字の使い方などは色々なバージョンあるにしても、1990年前後から、“産近甲龍”という“くくり”が、関西を中心に徐々に普及していったことはほぼ間違いがないであろう。
次に“日東駒専”(日本大学、東洋大学、駒澤大学、専修大学)を見ておこう。
この“くくり”も『螢雪時代』の代田氏が原型をつくって後に変化したものだ。もともとは“日東専駒成成神(ニットーセンコマセイセイカナ)”だったという。“成成神”は、成城大学、成蹊大学、神奈川大学のこと。のちに“成成神”はカットされる。前回の記事で紹介した1980年の毎日新聞にも載っていることから、1970年代には作られていたことがわかる。しかし『螢雪時代』に載ったり、受験業界で頻繁に使われるようになったのは1989年代後半になってからだ。写真は『私大合格』1989(平成元)年10月号。私が見つけた範囲では“日東専駒”が見出しで使われている初出である。
田川氏の証言によれば「たしか当時代々木ゼミナール副理事長だった竹村保昭氏が“日東駒専”と言い換えて、それが定着していったはず」ということだ。一般メディアにおいては、この“日東駒専”が関東地区では一番早く普及していった。
続いて“大東亜帝国”(大東文化大学、東海大学、亜細亜大学、帝京大学、国士館大学)を見ていこう。昭和から平成に代わる私大ブームの時の『私大合格』『螢雪時代』では“亜拓大帝国”“拓亜大東国”“拓亜大帝国”“大東亜拓桜帝国”など様々な表記で登場する(”拓亜大東国”の“拓”は拓殖大学、“東”は東京国際大学、“大東亜拓桜帝国”の桜は桜美林大学と記載されていた)。
“大東亜帝国”には当初「東海大学」は入っていなかったという説もある。ただ前述した『私立合格』1990(平成2)年4月号の旺文社ゼミの広告には、現在の「東海大学」も入った“大東亜帝国”の“くくり”が登場している。私が確認した限りではこれが初出だ。そして“拓亜大帝国”と併用されながら、徐々に“大東亜帝国”で定着していったようだ。
他にも関東地区では、同じく代田氏が作ったと言われる“関東上流江戸桜”(関東学園大学、上武大学、流通経済大学、江戸川大学、桜美林大学)。中京地区では“愛愛名中”(愛知、愛知学院、名城、中京)、“SSK(女子大)”(愛知淑徳、椙山女学園、金城学院)。関西地区では“摂神追桃”(摂南、神戸学院、追手門学院、桃山学院)などの“くくり”が存在するという。
最終回(予定)の次回では、これらの大学の“くくり”で得する大学、損する大学について。またコピーライティングやブランディングの観点から、大学の“くくり”を考察していきたい。
(次回「大学は自らの価値を「きちんと」発信せよ」に続く)
※本記事はウェブメディア「cakes」に寄稿していたものです。媒体消滅にあたり、ブログに移行しました。
“MARCH”の定説への疑問 (初出:cakes 2017年04月19日 10:00)
"関関同立"についてある種のスクープをつかんだコピーライターの川上徹也氏。同じように他のくくりの調査に乗り出すが、本業の合間に資料探しをするうえで予想外に時間がかかってしまった。しかしその中で、「"MARCH"が昭和30年代=1950年代から使われはじめた」という定説に疑問を感じるようになる。果たしてその根拠とは?
「“MARCH”の由来」の定説
近畿大学の“早慶近”の広告をきっかけに始まった大学の“くくり”の由来を調べる取材。
前回は、関西の難関四私大をあらわす“関関同立”というフレーズが、「関西大学を応援するために大阪の予備校が作ったものである」ということを紹介した。
前回から少し間が空いてしまったが、“MARCH” “産近甲龍”“日東駒専”“大東亜帝国”などのその他の“くくり”の由来についての調査結果を発表してみたい。
これらの私立大学にかんする“くくり”の多くは、『螢雪時代』によって作られ、一般メディアや予備校などが追随し、定着していったということが定説になっている。『螢雪時代』とは、旺文社発行の大学受験雑誌。1932年(昭和7年)創刊と歴史は古く、1970年代頃までは多くの受験生に読まれていて、特に当時、大手予備校がなかった地方都市の受験生にとっては、バイブル的な存在だった。
まず、“MARCH”から始めよう。“MARCH”とは、明治大学(M)、青山学院大学(A)、立教大学(R)、中央大学(C)、法政大学(H)という東京の私立5大学を総称した“くくり”だ。この大学群を単位とした特別な交流などは存在しておらず、基本的には大学受験の難易度や、就職活動等における学生のレベルを表す“くくり”として使われている。大学受験が昭和だった人間にはあまりなじみがないかもしれない。平成以降、特に21世紀になってから大学受験をした人間にとっては、聞いたことがある確率が高くなる。そして今や受験業界だけでなく一般にもよく知られるようになった。
“関関同立”は大学の頭の漢字を並べただけだが、“MARCH”はアルファベットにして、その単語自体にも意味があるようになっている。よりコピーライティング的な要素が強い“くくり”だといえる。
その由来は、WikipediaのMARCH(大学)には以下のような記述されている(2017年4月18日15時最終確認)。
『MARCH』という大学グループ名は、受験専門誌『螢雪時代』の編集長である代田恭之が考案したもので、「大学進学率が1割を超えた昭和30年代、大学がエリート期からマス期に移行するのに従って、私大グループの呼び名を、合格発表のある『3月』のMarchにかけて名付けたのが始まり」だという 。
上記のエピソードの出典としてあげられている雑誌『AERA』2011年1・17号、また『早慶MARCH』小林哲夫著(朝日新書)、その他ネット記事等で、代田氏がどのようにして“MARCH”などの“くくり”を思いついたかの発言が載っている。
そこに書かれているエピソードをざっくりまとめると以下のようなものになる。
当時、代田氏は全国の大学や高校をまわって大学受験をテーマにした講演をすることが多かった。そんな中で、聴衆が退屈して眠くならないようにインパクトのあるフレーズを準備する必要があった。そこから色々な“大学のくくり”のフレーズを遊び心で考えた。その中に“KWAMARCH(クワマーチ)”と名付けた“くくり”があった(K=慶應 WA=早稲田 M=明治 A=青山 R=立教 C=中央 H=法政)。彼が映画「戦場にかける橋」のテーマ音楽「クワイ河マーチ」が大好きだったのでそれをもじったという。しかし読みにくい。また代田氏が早稲田大学出身だったこともあり順番を入れ換え“WAKMARCH(ワックマーチ)”と名付け、講演などで語った。そのうちWAKが切れて、“MARCH”だけが残って使われるようになった。
ただこのエピソードが事実だとすると、“MARCH”は当初3月の意味ではなく、行進曲の意味のマーチだったということになる。
なかなか発見できない“MARCH”
まず螢雪時代で“MARCH”がいつから使われるようになったかを調べることにした。旺文社に行って書庫を見せてもらえば話は早いと思ったが、近畿大学から打診してもらったところ、一般には公開していないという。
そこで私は永田町にある国会図書館東京本館に行って、60~80年代後半、いわゆる昭和の『螢雪時代』のバックナンバーを可能な限り目を通してみることにした。
国会図書館で調べ物をしたことがある方はご存じだろうが、一度に書庫から出してもらえる冊数は限られている上に、出てくるまでの時間もかなりかかる。コピーを頼むとさらに時間がかかる。思った以上に大変な作業で1日ではとても終わらない。この作業は角川新書の編集者でこの連載の編集もしてくれている藏本淳氏に協力してもらった。
しかしながら、我々が目を通した範囲では“MARCH”という“くくり”を発見することはできなかった(ただし、欠号もあるので完全に「ない」ことを証明するのは難しい)。
ただ調べるなかで私が得た結論は「昭和30年代から螢雪時代にしばしば登場し、普及していったということは考えにくい」というものだった。
その間接的な証拠の一つが『螢雪時代』1974 (昭和49)年10月号に載っているワイド特集「激戦必至50年私大入試」だ。この記事には、東京地区を4つのグループに、関西地区を2つのグループに分けて私立大計30大学が紹介されている。しかし、グループ分けはされていても、上記のような“くくり”は、関西地区の“関関同立”以外は出てこない。前回の調査で1971(昭和46)年10月が初出だとわかった“関関同立”は、3年後には既に全国区になっていることがわかる。ただ少なくともこの時点では、それ以外の“くくり”のネーミングは、螢雪時代においても一般的ではなかったと推測される。
ではどのようなグループ分けがされているかというと、以下の通りである。※ 順番は元記事で書かれている順。( )のフレーズは記事で紹介されている内容を、筆者が要約したもの。
東京①(私学の双璧)
早稲田 慶應
東京②(ミッション系おしゃれなイメージで女子人気急上昇)
上智 青山学院 立教
東京➂(全国区の中堅総合私大 立地が神田周辺)
中央 明治 法政 日大
東京④ (人気の小規模中堅私大 難易度に比べイメージ高)
学習院 成蹊 成城 明治学院
東京その他(欄外コラムで紹介)
東京理科大 武蔵工大 國學院 専修 東洋 東海
関西① (“関関同立”で総称されるが、イメージはバラバラ)
同志社 立命館 関西 関西学院
関西② (近年イメージアップの注目校)
甲南 龍谷 京都産業
関西その他 (欄外コラムで紹介)
近大 大阪経大 大阪工大
(この時はまだ、依頼主である近大は“甲龍産”のグループにも入っていなかった!)
当時はまだ“MARCH”のような、偏差値は近いが校風の違う大学を無理やり一緒にした語呂合わせのいい“くくり”よりも、“上智青山立教”“中央明治法政日大”という“校風によるグループ分け”の方が、志望校選びの実情にあっていたのだろう。
昭和40年代は"JAR"の時代?
代田氏は前述した雑誌書籍等で「この”上智青山立教"の3大学の頭文字をとって"JAR(ジャル)”(もくしは、早稲田慶應を加え、"JARWAK(ジャルワック)"というフレーズを生み出した」とも語っている。これは昭和40年代、女子の大学進学率が上がり、中でもミッション系で人気の3校をくくって、日本航空のJAL(もしくはその旅行ブランド「JALパック」)にかけたものだという。
実際、1980(昭和55)年12月12日付けの毎日新聞には、「強まる“私難”傾向」という見出しの記事が載ってる。その中に“JAR”が登場する。
<「ジャルがソーケーに肉薄し、ニットーセンコマが急上昇中」。今、受験界では、こんな言葉がはやっている。「ジャル」は日航の「JAL」をもじったもので上智、青山、立教。「ソーケー」はご存じ、早稲田、慶應。「ニットーセンコマ」は、“中堅”の日本、東洋(または東京経済、東海)、専修、駒沢。これには「セイセイカナ」という言葉が続く。成城、成蹊、神奈川だ。競馬になぞらえて「二頭先駒斉整哉」と書く人もいる。>
しかしこの"JAR""日東専駒"などの"くくり"も、講演やメディアへの取材などでは語られていることはあったとしても、その時代の螢雪時代本誌にはなかなか見当たらない。
"くくり"は空前の私大ブームから
そんな中、螢雪時代の元編集者である田川博幸氏にお話をうかがうことができた。田川氏は、1980~90年代にかけて、前述の代田氏と一緒に、いろいろな大学の“くくり”のネーミングに携わったひとりである。
田川氏は「そのような"くくり"が螢雪時代に載るようになったのは、バブル最盛期の昭和から平成に移るタイミングだ」と語った。
それまで螢雪時代の読者は国公立志向が高く、当時、早慶以外の私立大学はそこまで注目されていなかった。ところが、1980年後半になると、事態が大きく変化してくる。18歳人口が急増した上に、大学進学率(特に女子)が急上昇する。要は大学進学者が大幅に増えたのだ。そうなると受験生のすそ野も広がる。私立志向も高まり、倍率も高くなる。
倍率の上昇とともに、私立大学の場合、多数の学校や学部を受験することが一般的になっていった。螢雪時代も「1-3-2併願作戦(※)」などというフレーズを作ってそれを後押しした。
(※合格可能性25%の最高目標校1校、合格可能性50%の実力相応校を3校、合格可能性75%の合格確保校を2校受験すれば、最低でも1校に合格する可能性の理論値は99.4%以上になるという計算から生まれたもの。その後、2-2-2、 1-2-3などフォーメーションは年によって変わる)
90年前後、私大専願の受験生は、早慶レベルを第一志望にしていても、合格確保校として偏差値の低い大学を受験することも珍しくなくなっていった。すると各大学の見かけの倍率や偏差値がさらに急上昇していく。いわゆる「私大バブル」という状況になり、「私高国低」「国捨私入」などと言われるようになった。進路指導にあたる高校の先生たちも、個別に対応しきれない。大学の校風などよりも、偏差値が重視されていくようになる。
1988(昭和63)年、旺文社は『私大合格』(1994年に『私大螢雪』と改名)を創刊し、私立大学の情報にも力を入れるようになる。前述の田川氏も『螢雪時代』から『私大合格』の編集部に異動した。毎月のように何らかの特集をつくらなければならないわけで、ますます目をひく見出しが重要になってくる。そうなると偏差値でグループ分けして、おもしろおかしいネーミングを使ったタイトルの方が興味をひきやすい。編集部で頭をひねって新しい"くくり"を生み出していったという。
「おそらくこの時期の『私大合格』『私大螢雪』『螢雪時代』で、上記のような"くくり"が誌面に頻繁に登場するようになったはずだ」と田川氏は語った。
そこで私は、その時代の『螢雪時代』とともに、『私大合格』『私大螢雪』のバックナンバーを調べてみることにした。なぜか『私大合格』『私大螢雪』は、国会図書館東京本館に置かれておらず、上野の「国際こども図書館」に所蔵されていた。
「国際こども図書館」は、なかなかおしゃれな建物で大人にとっても居心地がいい場所になっている。資料の閲覧や複写は国会図書館と同じシステム。ただし、一度に見れる冊数が5冊と少なく、複写している間は新たな資料を閲覧できないので、ここでもかなり時間がかかり、全部見るのは何日も通うはめになった。
ただそのおかげで、おもしろい事実を発見することができた。
(次回"MARCH"に至るまでの道」に続く)
※本記事はウェブメディア「cakes」に寄稿していたものです。媒体消滅にあたり、ブログに移行しました。
“関関同立”はいつ生まれたのか? (初出:cakes 2017年03月17日 10:00)
"関関同立""産近甲龍"といった″大学のくくり”を調査を進めるうちに"関関同立”がある大学を応援するために創られたキャッチコピーだったとつかんだコピーライターの川上徹也氏。”関関同立”はいつ、どのようにして生まれたのか? 知られざる逸話、本邦初公開!
誕生秘話を取材に大阪へ
近畿大学からの依頼で、大学の“くくり”の由来を調べることになった。 まずは、“関関同立”というフレーズから由来を調べてみることにした。 “関関同立”とは、「関西大学」「関西学院大学」「同志社大学」「立命館大学」という関西の難関四私大のことをさす。
このフレーズの歴史は古い。私の記憶では1970年代後半には、関西では既に定着していたと思う。しかし、なぜこの順番なのだろう。伝統や偏差値から言えば、同志社の同が先頭に来てもいいはずではないだろうか。
例えば、wikipediaの“関関同立”の項には「関関同立という言葉は戦後まもなくから通用しており、大学受験生向けの月刊雑誌である蛍雪時代や、昭和30年代の広辞苑に早くもこの項目が建てられている」とある(2017年3月15日14時最終確認 追記=本記事公開後、wikipediaの記述はこの記事に依拠したものに修正された)。 本当だろうか?
手元にある広辞苑(第六版)をひいてみたが発見できなかった。念のため私は、地元の中央図書館に行き、書庫から広辞苑第一版(昭和30年5月25日発行)、第二版(昭和44年5月16日発行)を出してもらい、いろいろな項目で調べてみたがやはり発見できなかった。
また蛍雪時代の元編集者への取材から、「“関関同立”というフレーズは、昭和40年代に大阪の夕陽丘予備校の創設者である白山桂三氏が考案し、のちに蛍雪時代でも使うようになった」という情報を手に入れた。野球などのスポーツの対戦で「同立戦」「関関戦」などのフレーズは古くからあったにせよ、大学の難易度による“関関同立”という“くくり”は、大阪の予備校が発祥であることはまず間違いないであろう。
白山氏は既に亡くなられているが、この経緯に詳しい夕陽丘予備校の現校長である窪津典明氏が取材を受けていただけることになり、私は大阪に向かった。
大阪のミナミのさらに南、天王寺駅の近くに夕陽丘予備校はある。私自身、生まれも育ちも天王寺駅近くの阿倍野区で、高校はこれまたすぐ近くの今宮高校に通っていた。 事前にそんなことを話していたことも効いたのか、窪津校長はとてもフランクに私を迎えていれてくれた。
創設者の白山桂三という人は、とても魅力のある人物だったらしい(故人なのでここから敬称略)。 旧制大阪高等学校から東京帝国大学に進み、高校教師になる。昭和27(1952)年、大学に受からなかった生徒たちを、難波でトタン屋根の校舎を建てて教えだしたのが、夕陽丘予備校のルーツだ(当時は浪速予備校という名称。のちに夕陽ケ丘の地に移転してから現名称に)。
その後も白山は「青年は宝だ」「若者を育てないと日本の未来はない」という信念の下、受験勉強だけでなく人間教育にも力を入れた。その結果、夕陽丘予備校は普通の予備校とは違うユニークな存在になっていく。普通、予備校は、大学に入学してしまえば、寄りつくような場所ではないが、夕陽丘予備校は、大学生になっても社会人になっても白山桂三を慕って卒業生が学校に集まってきたという。
現校長の窪津氏もそんな白山桂三門下生のひとりだ。高校生時代、家が経済的に苦しかった窪津氏は、夕陽丘予備校でバイトしながら国立大学を受験したが失敗。私立大学には行けるような経済状況ではなかった。 すると白山は窪津氏にこう言ったという。
「大学行くだけが人生ちゃうぞ。うちに就職せぇ。大学の4年で学ぶようなことは全部俺が教えてやる」
この言葉に窪津氏の心は動き、大学に行かずにそのまま夕陽丘予備校に就職した。そして白山の秘書的な役割から始まって夕陽丘一筋四十年以上、現在の校長に至るという。
予備校の先生が「大学行くだけが人生ちゃう」というのが痺れる。 ええ話や。しかし、私は夕陽丘予備校の「ええ話」の取材をしにきたわけではない。 そう“関関同立”のルーツを聞かなければ。
“関関同立”の初登場は昭和46(1971)年
まず窪津校長が私に見せてくれたのは「創立三十年夕陽丘予備校史」(1981年発行)という本だ。その中に、当時大阪新聞記者だった宮本守正氏が寄稿した「『大学へアタック』を始めた頃」という文章の中に、“関関同立”というフレーズが誕生したきっかけが書かれているという。早速、読ませていただいた。
大阪新聞とは、かつて大阪府を中心として発行されていた夕刊地方新聞で、産経新聞の夕刊的位置づけだった。「大学へアタック!」をはじめ教育・受験関係の記事が充実していることでも有名だったらしい。宮本氏は、昭和45(1970)年秋、産経新聞社から大阪新聞社に出向して受験記事を書かなくてはならなくなり、当時受験界では有名人だった白山桂三から色々とアドバイスを受けた。その中に、以下のように白山から言われたというエピソードが載っている。
「4つの私立大が、関西では入試レベルも高く、人気もある大学で、これを総称して“関関同立”と言うことにしようや。『大学へアタック!』で流行らせや」
この発言の日時がいつかは書かれていない。おそらく昭和45~46年頃であろう。
「“関関同立”という言葉が初めて大阪新聞に登場するのは、昭和46(1971)年10月14日日曜日です」と窪津校長は断言した。
なぜ、そんな詳細な日付がわかったのか?
窪津校長はこの日の取材のために、厖大な量の当時の新聞記事を産経新聞社に頼み、マイクロフィルムを焼いてコピーしてくれていたのだ。さらに時系列ですべての記事をチェックし、初めて“関関同立”の文字が出てくる記事を確認までしてくれていた。
「関東からわざわざ取材に来てくれるんやから、何かお土産がないとあかんと思いまして。それにこんな機会でもないと、きちんと調べることもないし」
と窪津校長はことなげにいうが、本当にありがたいことだ。こういう所に白山イズムが生きているということだろう。
私は差し出された昭和46(1971)年10月14日の大阪新聞の記事のコピーに目をやった。全体のタイトルは「消極的な受験動機」というもの。記事の署名はないがおそらく前述した記者の宮本氏が書いたものだろう。「関西大学の学生生活実態調査」から記事は書かれていて、当大学の受験動機で一番多かったのが「すべり止め」や「何となく」といった消極的動機が多いことを問題にしている。そしてこの問題は関西大学だけでなく、関学・同志社・立命など私立大学に共通する問題だと言うことで、全国進路研究所所長で夕陽丘予備校校長の白山桂三の談話として以下のような文章が載っている。
「第一志望に入れなかったなんて言いだしたら、東大を希望したがワンランク落として京大へ行っても同じ。こんなことで悩んでいたらキリがない。関関同立に合格したら就職面でも高い評価を受けている大学なのだから、何も悩むことがないのではないか。入学後それなりに努力する以外方法はないのではないか」
これこそが、記念すべき“関関同立”という“くくり”が初めて世の中に出た記事だという。
この記事を皮切りに、大阪新聞の「大学へアタック!」のコーナーでは、徐々に“関関同立”という言葉が登場してくるようになる。 最初は白山が寄稿したり発言したりする記事にだけに見られるフレーズだったが、昭和50(1975)年くらいには受験生などを中心にかなり浸透していき、他の予備校でも使われるようになっていった。 その後、予備校などに関関同立コースや関関同立模試などが誕生していき、一般に広く浸透していくようになったのだ。
“関関同立”はある大学を応援するために作った
では、なぜ、白山桂三は“関関同立”というフレーズを流行らせようとしたのだろうか? その疑問を窪津校長にぶつけると「これはテープ止めてもうてオフレコでないとしゃべれません」と言う。
今まで、東京の週刊誌をはじめ、色々な所から取材があったがすべて断ってきたという。 それはますます聞きたい。私はICレコーダーを止めて聞くことにした。 フーン、なるほど…そういうことだったのか!
これはぜひ書かせてもらいたい。私は粘った。 「もう時効だし、大阪の大学を応援するという大義もあるから記事にしてもいいんじゃないですか?」 すると窪津氏は「確かにそうですね。白山はもう故人ですし。私が考えたわけでもないですから」と、記事にすることを了承してくれた。
窪津校長の話をまとめると以下のようになる。
「当時の関西の私立大学の評価では、京都にある同志社・立命館、兵庫にある関西学院の3大学が飛び抜けて高くて、大阪にはこれぞ、という私立大学がなかった。言うたら大阪の優秀な高校生が京都や兵庫の大学の草刈り場になっている。夕陽丘予備校は大阪の予備校です。だから本来、大阪の大学を盛り上げるべき役割があると、白山は考えていたんです。さらに関大のバンカラな校風も好きやった。ただ正直言うと、当時の関大はマンモス校というだけでイメージは高くなかったんです。そこで難関四私大ということで上記3校に関西大学を入れ“関関同立”というフレーズを作れば、関大の相対的なポジションも高まるだろうと思って作ったと聞いています。だから順番も関関同立にした。もちろん語呂のよさもありますけど、関西大学が先頭に来ることも大切だったわけです。見てください、“関関同立”は五十音順なんです。関西学院大学の正確な読みは“くゎんせいがくいんだいがく”ですから、関西大学の方が前に来る。『五十音順に並べただけですわ』と言われたら誰からも文句つけられへん。白山も思いついた時は『うまいこと考えたな』と思たんちゃいますやろか」
つまり“関関同立”は、白山桂三が関大を応援するために考えたフレーズだというのだ。 だから当然、同じグループにされた他の三校、特に同志社は関関同立という“くくり”を嫌がっていたらしい。
「でもこのフレーズができて関西では私立大ブームがおこったんです。それまで、国公立でないとあかんていう風潮が強かったんですが、関関同立がブランド化されて品質保証的なものが生まれたんです。だからうちも当時は関大受験に力を入れました。学生から『関大通ったんはええけど、学校始まってまわり見渡したら夕陽の同級生ばっかりや』なんて言われたこともあるくらいです」
たったひとつの“くくり”が受験シーンを大きく変えたのだ。
(次回「“MARCH”の定説への疑問」に続く)
※本記事はウェブメディア「cakes」に寄稿していたものです。媒体消滅にあたり、ブログに移行しました。
「早慶近」の衝撃 (初出:cakes 2017年03月15日 10:00)
「マグロ大学って言うてるヤツ、誰や?」など、いま一番広報で攻めている近畿大学。今年の正月、大手新聞の関西版に掲載された新聞広告は、これまた見る人の度肝を抜くものだった。「やられた!」と思わず嫉妬したコピーライターの川上徹也氏が、仕掛け人の世耕石弘・広報部長に「インパクトありましたね」とメールを送ると、話は意外な方向に…。
関関同立、MARCH、日東駒専、産近甲龍…
受験シーズンもそろそろ終わりを迎えるが、日本の大学受験シーンに多大な影響を与えているフレーズがある。 それが見出しのような大学の“くくり”だ。 そんな“くくり”に異議を唱えるというスタンスの新聞広告が今年の始め(1月3日大手新聞各紙の関西版)に掲載された。
広告主は、近畿大学。 そう、あの「近大マグロ」で有名な近大だ。
私の職業はコピーライターで、特に企業のブランディングの旗印になるフレーズを開発することを得意としている。 昨年、cakesで近畿大学広報部長の世耕石弘氏との対談を連載した。同じく昨年上梓した『こだわりバカ』(角川新書)で、インパクトのある近大の広告を紹介したのがご縁だ。 対談が終わり別れ際、世耕氏は「来年の新聞広告もスゴイの考えてますから」と不敵な笑みを浮かべていた。しかし、正直ここまでやるとは思わなかった。
写真を見てほしい。 大きく「早慶近」のキャッチコピー。
見た瞬間、「やられた!」と思わずつぶやいてしまった。
キャッチコピーにはいくつかの役割があるが、この“早慶近”は、「本文を読んでもらうために興味をひきつける」「読み手の価値観を変える」などの要素を満たしている。 最近の躍進で、関西の難関私大の代名詞である“関関同立”に割ってはいり“関近同立”を狙っていると思われていた近大だが、そんな“くくり”を通り越して“早慶近”とは…。「いったい何を言い出すんだ近大」と、中身を読んでみたくなるキャッチコピーになっている。
ボディコピーは以下のように始まる。
旧帝大、早慶上理、MARCH、日東駒専、関関同立、産近甲龍、いきなりですけど、こんな大学の“くくり”一度は聞いたことありますよね?
それらの“くくり”を<なかなかのネーミングセンス!>とほめるフリをしながら<冷静に見ると滑稽な感じがしませんか?><語呂が良いだけの大学の“くくり”に依存してませんか?><大学界の常識、そろそろ見直してもいい頃じゃないですか> と批判していく。
そして<じゃあ、世界ではどうか>と話題を変え、<最新の「THE世界大学ランキングで、一定以上の評価をされた日本の私立大学を頭文字でくくってみると、まさかの“早慶近”。研究・教育の国際基準ではこうなっているんです>と続くのだ。
THE世界大学ランキングでの日本の大学の評価
「THE世界大学ランキング」とは、英国の教育雑誌「タイムズ・ハイヤー・エデュケーション」が発表した「世界大学ランキング2016-2017」のこと。「教育」「論文引用」「研究」「国際化」などの基準で選ばれていて、信頼性のある世界大学ランキングのひとつだ。
このランキングで世界1位はイギリスのオックスフォード大学。以下、アメリカのカリフォルニア工科大学、スタンフォード大学が続く。200位まで細かな順位がつけられていて、それ以下は大まかな順位しかつかないが、世界全体で980大学が公表されている。
日本の大学はというと、69校が入っていて、39位に東京大学。91位に京都大学、以下600位までに13校がランクイン。うち12大学が国公立大学で、私立大学では351-400位の豊田工業大学だけしか入っていない。 私立総合大学となると、601-800位に、慶應義塾大学、近畿大学、早稲田大学が登場してくる。同順位の場合は原則アルファベット順ということで正確な順番はわからないが、他の日本の私立総合大学は(上智もMARCHも関関同立も)、すべて801位以下だ。
だからこの世界ランキングで日本の私立総合大学の上位3校をくくれば確かに“早慶近”は間違っていない(アルファベット順だと“慶近早”が正しいともいえるが語呂を重視したということだろう)。
まったく、うまく考えたもんだ。 当たり前だが、THE世界ランキングは毎年変動している。ちなみに前年のランキングだとこんな風にキレイに“早慶近”にはならない(上智大学など同じ順位にランキングされている私立総合大学が複数あるため) 。来年もどうなるかわからない。つまり今年しかこのキャッチコピーを世に出すチャンスがないかもしれないのだ。それを逃さずやる、というタイミングも「やるな!」と感じた。
正論を主張しつつもおちゃらけで締める
さらにボディコピーをみていこう。
じゃあ今年からはもう、“早慶近”でどうですか?え?「それは無いやろ。」って? はい、分かって言ってます。
と、自らツッコミを入れてから、
2017年。そんな大学界の常識、そろそろ見直してもいい頃じゃないですか。
と本当に言いたかったことを主張していくのだ。
近畿大学の広告というよりも、日本の教育界全体にもの申すというスタンス。 でも言っていることはまさに正論。
日本においては、「いい大学」というのはすなわち「入試が難しい大学」のことになってしまっている。世界的な研究や教育の充実といったことよりも、入学試験の偏差値をもって大学を評価するのが一般的だ。 卒業後の学生を評価するわかりすい指標がないため、大学の偏差値は固定化する傾向にある(高校は大学進学実績というわかりやすい指標があるため、偏差値はまだ変動しやすい)。 だから競争原理が働きにくく、大学の序列は50年前とほとんど変わらない。日本の大学の世界的評価が相対的に下がってきているのと無関係ではないだろう。
この新聞広告が「おみごと!」だと思うのは、そんなマジメな主張をしておきながら
でも、さすがに“早慶近”て。言いだした自分でもアホくさくて、笑てまうわ。
とおちゃらけて締めるところだ。
私も出身が大阪なのでわかるが、あんまり声高にマジメなことを言ったあとは、ついつい「シャレでんがなシャレ」と言いたくなってしまう。この広告もそんな大阪人気質が効いている。
さらにだめ押しに落款風に「みなさまに早々に慶びが近づきますように」と印字されている。まるで「早慶近は、早稲田慶應近大を並べてる訳じゃなくて、新年の慶びを祝う挨拶の略なんですよ」とも読めなくはない。
近大からのメール
いや、まったく読み手をおちょくった(最大級のホメ言葉です)広告だ。 大学の広告は、「世界にはばたく」「未来をひらく」といった抽象的なフレーズでそれっぽく語る、ポエムのようなものが圧倒的に多い。そういった「空気コピー」が99%の中で、異例のインパクトを感じた。
ただこういった目立つ広告は当然批判も呼ぶ。称賛の声が上がる一方で、「近大ごときが何を言っているんだ」というような意見もネットで散見された。もちろん、近大にとってはこのような批判も想定内だろう。批判する人は、近大の術中にまんまとはまっているのかもしれない。
もうひとつコピーライターとして注目したポイントがあった。それがこの広告で紹介されていた“関関同立”“MARCH”“日東駒専”“産近甲龍”などの大学の“くくり”だ。 “関関同立”は私が受験した時にもあった“くくり”だが、それ以外はここ数年ではじめた聞いたものだった。なぜこのようなフレーズが生まれたのか興味がわく。 “関関同立”も“MARCH”も、かなりの名キャッチコピーだ。ただその“くくり”によって得する大学もあれば、迷惑だと思っている大学もあるだろう。誰がどのような意図でこのようなネーミングを考えたのだろう?
そんなことを考えていると、近大からメールが来た。 私が「新聞広告みました。インパクトありましたね」と送ったメールへの返信だった。 内容は「“関関同立”や“MARCH”などの由来を調べて書いてくれませんか?」というもの。
「我々もその由来を知りたいので誰か調べて書いてくる人を探していました。純粋に調べて書いてくれればよく、近大を持ち上げたりする必要はまったくありませんのでお願いできませんか?」とのこと。
私自身もそれは非常に興味がある。あまりやったことないタイプの仕事ではあるが、ここは近大の提案に乗って、大学の“くくり”の由来を取材してみることにした。
(次回「“関関同立”はいつ生まれたのか?」に続く)
※本記事はウェブメディア「cakes」に寄稿していたものです。媒体消滅にあたり、ブログに移行しました。