“MARCH”の定説への疑問  (初出:cakes 2017年04月19日 10:00)

"関関同立"についてある種のスクープをつかんだコピーライターの川上徹也氏。同じように他のくくりの調査に乗り出すが、本業の合間に資料探しをするうえで予想外に時間がかかってしまった。しかしその中で、「"MARCH"が昭和30年代=1950年代から使われはじめた」という定説に疑問を感じるようになる。果たしてその根拠とは?

「“MARCH”の由来」の定説

 近畿大学の“早慶近”の広告をきっかけに始まった大学の“くくり”の由来を調べる取材。
 前回は、関西の難関四私大をあらわす“関関同立”というフレーズが、「関西大学を応援するために大阪の予備校が作ったものである」ということを紹介した。
 前回から少し間が空いてしまったが、“MARCH” “産近甲龍”“日東駒専”“大東亜帝国”などのその他の“くくり”の由来についての調査結果を発表してみたい。

 これらの私立大学にかんする“くくり”の多くは、『螢雪時代』によって作られ、一般メディアや予備校などが追随し、定着していったということが定説になっている。『螢雪時代』とは、旺文社発行の大学受験雑誌。1932年(昭和7年)創刊と歴史は古く、1970年代頃までは多くの受験生に読まれていて、特に当時、大手予備校がなかった地方都市の受験生にとっては、バイブル的な存在だった。

 まず、“MARCH”から始めよう。“MARCH”とは、明治大学(M)、青山学院大学(A)、立教大学(R)、中央大学(C)、法政大学(H)という東京の私立5大学を総称した“くくり”だ。この大学群を単位とした特別な交流などは存在しておらず、基本的には大学受験の難易度や、就職活動等における学生のレベルを表す“くくり”として使われている。大学受験が昭和だった人間にはあまりなじみがないかもしれない。平成以降、特に21世紀になってから大学受験をした人間にとっては、聞いたことがある確率が高くなる。そして今や受験業界だけでなく一般にもよく知られるようになった。

 “関関同立”は大学の頭の漢字を並べただけだが、“MARCH”はアルファベットにして、その単語自体にも意味があるようになっている。よりコピーライティング的な要素が強い“くくり”だといえる。

 その由来は、WikipediaMARCH(大学)には以下のような記述されている(2017年4月18日15時最終確認)。

『MARCH』という大学グループ名は、受験専門誌『螢雪時代』の編集長である代田恭之が考案したもので、「大学進学率が1割を超えた昭和30年代、大学がエリート期からマス期に移行するのに従って、私大グループの呼び名を、合格発表のある『3月』のMarchにかけて名付けたのが始まり」だという 。

 上記のエピソードの出典としてあげられている雑誌『AERA』2011年1・17号、また『早慶MARCH』小林哲夫著(朝日新書)、その他ネット記事等で、代田氏がどのようにして“MARCH”などの“くくり”を思いついたかの発言が載っている。

 そこに書かれているエピソードをざっくりまとめると以下のようなものになる。

 当時、代田氏は全国の大学や高校をまわって大学受験をテーマにした講演をすることが多かった。そんな中で、聴衆が退屈して眠くならないようにインパクトのあるフレーズを準備する必要があった。そこから色々な“大学のくくり”のフレーズを遊び心で考えた。その中に“KWAMARCH(クワマーチ)”と名付けた“くくり”があった(K=慶應 WA=早稲田 M=明治 A=青山 R=立教 C=中央 H=法政)。彼が映画「戦場にかける橋」のテーマ音楽「クワイ河マーチ」が大好きだったのでそれをもじったという。しかし読みにくい。また代田氏が早稲田大学出身だったこともあり順番を入れ換え“WAKMARCH(ワックマーチ)”と名付け、講演などで語った。そのうちWAKが切れて、“MARCH”だけが残って使われるようになった。

 ただこのエピソードが事実だとすると、“MARCH”は当初3月の意味ではなく、行進曲の意味のマーチだったということになる。

なかなか発見できない“MARCH”

 まず螢雪時代で“MARCH”がいつから使われるようになったかを調べることにした。旺文社に行って書庫を見せてもらえば話は早いと思ったが、近畿大学から打診してもらったところ、一般には公開していないという。

 そこで私は永田町にある国会図書館東京本館に行って、60~80年代後半、いわゆる昭和の『螢雪時代』のバックナンバーを可能な限り目を通してみることにした。

 国会図書館で調べ物をしたことがある方はご存じだろうが、一度に書庫から出してもらえる冊数は限られている上に、出てくるまでの時間もかなりかかる。コピーを頼むとさらに時間がかかる。思った以上に大変な作業で1日ではとても終わらない。この作業は角川新書の編集者でこの連載の編集もしてくれている藏本淳氏に協力してもらった。
 しかしながら、我々が目を通した範囲では“MARCH”という“くくり”を発見することはできなかった(ただし、欠号もあるので完全に「ない」ことを証明するのは難しい)。

 ただ調べるなかで私が得た結論は「昭和30年代から螢雪時代にしばしば登場し、普及していったということは考えにくい」というものだった。

 その間接的な証拠の一つが『螢雪時代』1974 (昭和49)年10月号に載っているワイド特集「激戦必至50年私大入試」だ。この記事には、東京地区を4つのグループに、関西地区を2つのグループに分けて私立大計30大学が紹介されている。しかし、グループ分けはされていても、上記のような“くくり”は、関西地区の“関関同立”以外は出てこない。前回の調査で1971(昭和46)年10月が初出だとわかった“関関同立”は、3年後には既に全国区になっていることがわかる。ただ少なくともこの時点では、それ以外の“くくり”のネーミングは、螢雪時代においても一般的ではなかったと推測される。

 ではどのようなグループ分けがされているかというと、以下の通りである。※ 順番は元記事で書かれている順。( )のフレーズは記事で紹介されている内容を、筆者が要約したもの。

東京①(私学の双璧)
早稲田 慶應

東京②(ミッション系おしゃれなイメージで女子人気急上昇)
上智 青山学院 立教


東京➂(全国区の中堅総合私大 立地が神田周辺) 
中央 明治 法政 日大


東京④ (人気の小規模中堅私大 難易度に比べイメージ高)
学習院 成蹊 成城 明治学院

東京その他(欄外コラムで紹介)
東京理科大 武蔵工大 國學院 専修 東洋 東海

関西① (“関関同立”で総称されるが、イメージはバラバラ)
同志社 立命館 関西 関西学院

関西② (近年イメージアップの注目校)
甲南 龍谷 京都産業

関西その他 (欄外コラムで紹介)
近大 大阪経大 大阪工大
(この時はまだ、依頼主である近大は“甲龍産”のグループにも入っていなかった!)

 当時はまだ“MARCH”のような、偏差値は近いが校風の違う大学を無理やり一緒にした語呂合わせのいい“くくり”よりも、“上智青山立教”“中央明治法政日大”という“校風によるグループ分け”の方が、志望校選びの実情にあっていたのだろう。

昭和40年代は"JAR"の時代?

 代田氏は前述した雑誌書籍等で「この”上智青山立教"の3大学の頭文字をとって"JAR(ジャル)”(もくしは、早稲田慶應を加え、"JARWAK(ジャルワック)"というフレーズを生み出した」とも語っている。これは昭和40年代、女子の大学進学率が上がり、中でもミッション系で人気の3校をくくって、日本航空JAL(もしくはその旅行ブランド「JALパック」)にかけたものだという。

 実際、1980(昭和55)年12月12日付けの毎日新聞には、「強まる“私難”傾向」という見出しの記事が載ってる。その中に“JAR”が登場する。

<「ジャルがソーケーに肉薄し、ニットーセンコマが急上昇中」。今、受験界では、こんな言葉がはやっている。「ジャル」は日航の「JAL」をもじったもので上智、青山、立教。「ソーケー」はご存じ、早稲田、慶應。「ニットーセンコマ」は、“中堅”の日本、東洋(または東京経済、東海)、専修、駒沢。これには「セイセイカナ」という言葉が続く。成城、成蹊、神奈川だ。競馬になぞらえて「二頭先駒斉整哉」と書く人もいる。>

 しかしこの"JAR""日東専駒"などの"くくり"も、講演やメディアへの取材などでは語られていることはあったとしても、その時代の螢雪時代本誌にはなかなか見当たらない。

"くくり"は空前の私大ブームから

 そんな中、螢雪時代の元編集者である田川博幸氏にお話をうかがうことができた。田川氏は、1980~90年代にかけて、前述の代田氏と一緒に、いろいろな大学の“くくり”のネーミングに携わったひとりである。

 田川氏は「そのような"くくり"が螢雪時代に載るようになったのは、バブル最盛期の昭和から平成に移るタイミングだ」と語った。

 それまで螢雪時代の読者は国公立志向が高く、当時、早慶以外の私立大学はそこまで注目されていなかった。ところが、1980年後半になると、事態が大きく変化してくる。18歳人口が急増した上に、大学進学率(特に女子)が急上昇する。要は大学進学者が大幅に増えたのだ。そうなると受験生のすそ野も広がる。私立志向も高まり、倍率も高くなる。

 倍率の上昇とともに、私立大学の場合、多数の学校や学部を受験することが一般的になっていった。螢雪時代も「1-3-2併願作戦(※)」などというフレーズを作ってそれを後押しした。
(※合格可能性25%の最高目標校1校、合格可能性50%の実力相応校を3校、合格可能性75%の合格確保校を2校受験すれば、最低でも1校に合格する可能性の理論値は99.4%以上になるという計算から生まれたもの。その後、2-2-2、 1-2-3などフォーメーションは年によって変わる)

 90年前後、私大専願の受験生は、早慶レベルを第一志望にしていても、合格確保校として偏差値の低い大学を受験することも珍しくなくなっていった。すると各大学の見かけの倍率や偏差値がさらに急上昇していく。いわゆる「私大バブル」という状況になり、「私高国低」「国捨私入」などと言われるようになった。進路指導にあたる高校の先生たちも、個別に対応しきれない。大学の校風などよりも、偏差値が重視されていくようになる。

 1988(昭和63)年、旺文社は『私大合格』(1994年に『私大螢雪』と改名)を創刊し、私立大学の情報にも力を入れるようになる。前述の田川氏も『螢雪時代』から『私大合格』の編集部に異動した。毎月のように何らかの特集をつくらなければならないわけで、ますます目をひく見出しが重要になってくる。そうなると偏差値でグループ分けして、おもしろおかしいネーミングを使ったタイトルの方が興味をひきやすい。編集部で頭をひねって新しい"くくり"を生み出していったという。

「おそらくこの時期の『私大合格』『私大螢雪』『螢雪時代』で、上記のような"くくり"が誌面に頻繁に登場するようになったはずだ」と田川氏は語った。

 そこで私は、その時代の『螢雪時代』とともに、『私大合格』『私大螢雪』のバックナンバーを調べてみることにした。なぜか『私大合格』『私大螢雪』は、国会図書館東京本館に置かれておらず、上野の「国際こども図書館」に所蔵されていた。

 「国際こども図書館」は、なかなかおしゃれな建物で大人にとっても居心地がいい場所になっている。資料の閲覧や複写は国会図書館と同じシステム。ただし、一度に見れる冊数が5冊と少なく、複写している間は新たな資料を閲覧できないので、ここでもかなり時間がかかり、全部見るのは何日も通うはめになった。
 ただそのおかげで、おもしろい事実を発見することができた。

(次回"MARCH"に至るまでの道」に続く)

※本記事はウェブメディア「cakes」に寄稿していたものです。媒体消滅にあたり、ブログに移行しました。